2009/07/28

「してあげたい」ということ

今日は自論を述べます。



誰かに「してあげたい」と思うことについて。
私はあえて「してあげたい」と思わないようにしています。
何かしてあげたいという気持ちが出てきた時、その欲求は一旦忘れます。


「してあげたい」と思う気持ちには、何かしら動機がありますよね。
その動機を育てていれば、おのずと自然に「してあげてる」状態になるのだと思うからです。




例えば、やさしさからくる「してあげたい」なのであれば、
思いっきりやさしくなればいいのです。
もうこれ以上のやさしさって何?ってくらいとびっきりやさしくなるのです。




例えば、愛情からくる「してあげたい」なのであれば、
思いっきり愛せばいいのです。
もうこれ以上大きくなれない!ってくらい愛を膨らませるのです。





「してあげたい」と思っているときは、その思いよりも動機が小さくなってしまっている時だと思っています。
思いに対して動機がつりあわない時、その思いはどうにも魅力的に思えないのです。
どうも一方的にボールを投げてばっかりになってしまうというか。

ボールを受け取って投げ返すという基本的なことができなくなっていることが多いように感じます。
相手が投げたボールを受け取ってみて、「あ、私が思う球はこれじゃないのよね」とか言ってそのボールを捨てて自分のポケットから新しいボールをとって投げ返したりするような場面をたまに見かけます。


あとは「してあげてる」というのを何かのアピール材料にしていたりとか。
それによって何かを得ようとする時なんか。特にね。




そう考えると、「してあげたい」という言葉自体にはまったく何も魅力なんかないんですよ。
重要なのは、その前提。動機です。

動機ありきの「してあげたい」です。
「してあげたい」が先行して、動機がないがしろにされているのはまったくもって意味がない。






それに、人にしてあげることって少ないですよ。
自分で思っている以上に。何もできないことが多い。

その数少ないできることをしようと思うならば、
まず「してあげたい」と思わないことです。

「してあげたい」と思っている事柄の中にできることはまずほとんどないですよ。






何か「してあげた」という状況は、
自分が気付かない内に、いつのまにかしてたことなのですから。